タチバナナ

短歌で綴る令和の日常

タチバナナ流歌論 柿本人麻呂に抱かれて

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特別お題「わたしの推し

 

 かねてより一度、自分自身の歌に対する思いを述べてみたいなと思っておりました。

このブログを通して短歌の投稿を続けてまいりましたので、まずは短歌を詠むときのタチバナナ流の心構えですね。これを述べさせてもらいます。要点は3つあります。

 

1.しらべ

2.こころ

3.つくり

 

 ご存知のように短歌(和歌)は五・七・五・七・七の音に収まるように作られる定型詩です。この五音と七音の並びと繰り返しによる叙述の仕方が、五七調といわれ宇宙に共鳴するリズム、などといわれることもあるように、古来より日本人の心に響くテンポを織りなすわけです。句の切れ方によっては七五調ともなるのですが、要は五音と七音による構成です。それが五・七・五・七・七と繰り返されると、字余りや字足らずになる場合もあるのですが合計31音の短歌が出来上がることになります。その出来上がった短歌を見て、もしくは声に出して読んで、どれだけ心地よいメロディーを奏でているか、それが第一のポイントである、しらべ(調べ)ということになります。もちろん短歌の場合は音階がついてはいませんので、厳密には旋律とは呼べないのでしょうけれど、詩を含まないクラッシックの旋律が心に響くように、語句の字数と意味を含んだ音の組み合わせが、いかに心地よく伝わるかということです。

 

 次にその調べを伴って伝えられる、その歌に込められた思いや風景、事柄が、感動や共感を持って受け取れるかということが、第二のポイントであるこころ(心)ということです。現代の私たちが詩を読む場合、そこに述べらる内容によりおよそ叙情詩と叙景詩に分けられます。つまり何らかの思いや気持ちもしくは、感動を伴って見たり感じたりした風景や物事を述べるのです。その時の感動が、短歌というフィルターを通りながら伝わってくるかどうかということです。言葉を変えれば、わかりやすいかどうかといってもよいでしょう。作者が歌の解説をしなくても、読み手が理解できるかどうかということです。

 

 そして出来上がった歌が、文法的にあっているか、字句の用い方がよいか、世の中の道理にかなっているのか、さらには和歌の技法に則っているのかということが、第三のポイントであるつくり(作り)ということになります。これらの三つのポイントはそれぞれ、

 

1.しらべ→所作、振る舞い(美)

2.こころ→思い、心がけ(善)

3.つくり→装い、身なり(真)

 

という人物の有様にもたとえられます。所作が美しい人、心がけが麗しい人、装いが雅であったりする人には、誰もが心動かされるものですね。それと同じです。

 

 短歌を綴りながらも、私の歌論というものは前述のごとく大変粗削りで大ざっぱなものです。良寛さんが「歌詠みの歌、書家の書、料理人の料理」を嫌いだといわれたのも、何を感じ、何を伝えるのかを大切にしておられたからではないでしょうか。イラストレーターの横尾忠則さんも、ご自身が油絵を描かれない理由として、評論家がうるさいからということをおっしゃっておられましたが、これと趣旨を同じくするものと思われます。そんな持論を展開する私が推しの人物を挙げるとすると、柿本人麻呂を上げないわけにはいきません。たぶん今回のエントリーで一番時代が古い人物になるんじゃないでしょうかね

 以前、万葉集古今集新古今集と読み進めていた折、柿本人麻呂の歌が出てくると、とてもうれしい気持ちになりました。もちろん万葉集ですね。冒頭から読み進めると、時折顔を出してはまた消え、そして時々現れる、といった感じだったと思います。しばらく他の人の歌の後に出くわすと、懐かしく思われるくらいに。物語や小説を読み進めているとき、好きな登場人物が描かれる段にさしかかった時のようなものです。もう一人あげるとすると山部赤人。この二人がどうしても心に残る歌人でした。

 それと同じようなことが最近(といってもすでにあの時代になってしまった昭和なのですが)あったのは聖子ちゃんの歌です。数ある流行歌の中でも、デビューころから聞こえてくる彼女の歌自身をいいなと感じていました。近年動画投稿サイトで最近の活動をみて、その後ご本人も大好きになりました。周囲の方も語られるように向上心の強さと、40代50代になって本質的な人生を歩まれるようになってからの、人気を獲得するために媚びる必要のない、内面からあふれ出る自信と魅力が感じられたのです。そして彼女の持ち歌の良さ。それらの多くは、彼女自身も尊敬する松本隆氏によるもので、当時の私たちは松本隆によってジャックされていたのではないかと思うほどです。それと同時にもう一つの思いが浮かびました。「松田聖子は歌に守られたのではないか」。

 どういうことかといいますと。かつてこれも昭和の時代ですが、NHKで「大草原の小さな家」というドラマが放映されていました。アメリカで制作された西部開拓時代の、ある一家の心温まるストーリなのですが、そこに登場する一家の次女で、主役のローラ役を演じた女優のメリッサ・ギルバートがのちに「私は役柄によって守られた。」ということを話されたそうです。芸能界では年若くして人気を博すると、その名声におぼれて身を持ち崩してしまう人が多い中、自身はドラマのローラ・インガルスという人柄を演じることにより、その影響を受けて自分を見失なうことがなかった、ということです。伝聞で事実関係を確認していないのですが。その類推で行くと、聖子ちゃんの歌にも同じことが言えるのではないかということです。

 好みはそれぞれありますが、デビュー当時から初期の段階に聖子ちゃんに提供された歌は、明らかに同時代に他の歌手へ提供された歌詞とは、主人公というか歌の中のキャラクターの設定が一線を画しています。もちろんご本人が持ち合わせた本質も一致していたのでしょう。また、当時は文字通りヒット曲だったのですが、今なお人気がある息の長い曲が多く、歌の持つ力が大きいといえるのではないでしょうか。それらの歌を長年、歌の中のキャラクターとして自らを演じつつ、キャラクターになり切り、聞く人に語り続けるとすると、歌われる歌詞の内容に自分自身も引き寄せられ、影響されていくのではないかという類推です。もちろん個人的な好みは差し引いて考えてくださいね。

 さて柿本人麻呂に戻ります。私個人の好みとは別にしても、歌人斎藤茂吉も著書万葉秀歌の中で彼の和歌の秀逸さを述べられています。また古来和歌の世界では山柿の門といって柿本人麻呂山部赤人(諸説あり)を模範とする歌人とされています。もちろん彼らの優劣や歌の良しあしは論ずる人により様々に言われます。しかし良寛さんが言うように、それらの和歌の中において、歌われる景色や思いの本質的なものはどうでしょうか。景色でいえば今なら日本全土が世界遺産であったであろう美しさ、心情であれば現代人が遠く及ばないような素朴で素直な感性。これらを編纂された当時から私たち日本は折に触れ読み続けてきているのです。ということはつまり、万葉集百人一首などを読み、時に実際に詠ずるときは、彼らの感性を通して私たち日本人は常に守られ、精神的にはその雄大大自然に、今も抱かれているのではないでしょうか。